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介護離職への道(31)失ったもの

失ったもの

親父が亡くなって3か月半が過ぎた頃のメモ書きです。「四十九日が終わり少しは落ち着いたのだろうか?」
私は実家から離れた遠方に住んでいたので、親父が逝った実感が薄かったのかも知れません。逝った後も、弟、叔母さんが母親を見てくれていました。

「落ち着いた感じ」よりも何かが残っている感じがありました。不安感なのか?何かが引っ掛かっていました。母親の心配なのだろうか?親父が亡くなって、自分の気持ちの中で何かを失った感じがしていました。

弟、母親のこともあり定年を待たず会社を辞める方向になるだろうと思っていました。いわゆる介護離職に近いかも知れないと。実際には両親が入院した頃から漠然と考えていました。辞めて帰ることになるだろう。大した財産も無いし、先祖伝来の田畑があるわけでも無いのですが、長男の役目、責任?。できるならそうした方が良いのだろうと思っていました。

無職になると無収入になります。年齢的にも就職も怪しい気がします。先を考えると、これも大きなストレスでした。ただ、それだけでは無いようなストレスが続いていました。それが何かよく分かりませんでした。

よくわからないのだけれど、四十九日が過ぎて気付いたことです。もし、何かがあれば最後に相談できる親父がいる安心感か?。失ったものは「親父」がいる安心感だと思いました。「孤独感、喪失感」なのかも知れません。定年も見えて来た年齢なのに親離れして無かったってことなのでしょうか?

実際には、親父は呆けてしまって何か頼れるところなどもう無かったのですが、そんな状態でも居る、存在だけで安心感を与えてくれていたと思えました。失ったものは「心の安心感」なのかも知れません。介護離職後の生活が始まれば、いろいろすることが出てきて、このストレスから解放されるかも知れないとも思っていました。

離職して帰省後、国道55号沿線はこんなに快晴で空が明るいのか、とビックリしました。30年くらい掛かって初めてそう感じました。きっと生まれ育ったところでなければ住みたく無いと思います。地方の田舎で良いところがあまり無いのです。人が少ないところが良いのかも知れないですが。後は、気のせいか親切な人が多いです。現在、生活のレベルはかなり下がりましたが、大きなストレスも無く平穏な感じで過ごしています。

※メモ
若い頃は何も考えていませんでした。定年が見えて来た50才くらい?、親のボケが進んだ頃?そんなあたりから「定年後どうするのか?」少し考えるようになりました。意外と定年に備える話は先輩連中から聞くことも無かったです。必ず年を喰うので早めに考えて損は無いかも知れないです。親父が保険会社に行ってた頃に積立年金?に入ったらと勧めていたのが私が35才くらいの頃でした。その時に入ってればかなりの利率の金額になっていたでしょう。「親の言う事は聞くものだ」と今ごろ思っています。