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介護離職への道(17)余命宣告

余命宣告

土~火曜日の4日間の帰省でした。
主治医との面談が月曜になっていました。親父の容態が良くなることはない。気分が重い。数年前に親父さんを亡くした中学生からの友人を呼び出しました。何を話したかあまり覚えていません。「もし新聞に載ったら焼香に行くから」だけは覚えています。

翌日の日曜日。叔父さんが同じ病院でリハビリ中だったので見舞いに行こうと思っていました。弟に「親父は、ほとんど寝ているし、もう僕もわからないので主治医に会う月曜ので良い」と言われていました。この日は一日中実家でぼ~っとぼんやりしていました。何も覚えていません。

月曜日、主治医と面談するために親父を看に病院へ行きました。弟は職場から来ます。叔母さんに車で連れて行ってもらいました。叔母さんは「兄弟でよく話して」と席を外しました。二人で親父を看に行きました。

年末から1ケ月くらいしか経ってないのに、痩せこけ、前歯も抜け・・・なんでこんなになったのだろう。想像を超えていました。ひどく見えました。弟は冷静でした。親父に何度か声を掛けました。私と分ったか。ほんの少しだけです。反応がありました。それだけでした。

主治医と面談の前に、親父の様子を看て手術云々では済みそうも無い。覚悟しないとダメだと思いました。

面談時間になりました。主治医は若い女の先生でした。弟から入院の連絡を受けた時点では、手術の有無だったのに・・・長くて今月いっぱいとの話でした。さっきの親父の状態を見れば、もう仕方がないと頭では分かるのです。でも辛かったです。好きなことやって来た86才なら十分かと。

もし、現況の痛み止めが効かず、さらにきつい痛み止めを使った場合には2日くらいしかもたないが、それでもその薬を使って良いかと聞かれました。その折には電話連絡をするので連絡先を。

私は遠方に住んでいます。看取れますか?と聞きました。答えなかったので難しそうに思えました。

どの時点で涙ぐんだ、泣いたのか分かりません。先生が悲しそうに私を見ていました。弟は横で聞いていました。ずっと冷静でした。入院した頃から看ていたので覚悟はしていたのだろうと思います。

面談後にもう一度、弟と親父を看に行きました。反応も無く。寝たままでした。たぶん私が会えるのは、これが最後だろうと。この状態でも実感があまりありませんでした。突然、状態が変わっているから?さっき泣いたからか?

叔母さんが待っていてくれました。
このまま帰りたくなかったので叔父さんのお見舞いに行きました。叔母さんが親父の事は叔父さんに知らせていないとのことでした。叔父さんはかなりよくなっていました。それでもリハビリが必要とのことでした。元気そうな叔父さんを見て安心しました。親父が原因の怪我です。大事にならずに済んで良かったと思いました。

叔母さんに母親に知らせるの?と聞かれました。
私が帰省したことで母親も察して「もう病院から帰って来れないかも知れない」と何度か言ってた、とだけ答えました。

帰りは弟の車で帰りました。
「もう仕方が無い。本当によく世話してくれた。よく頑張ってくれた。今日は疲れただろうし、私が帰省しているのだから自宅に帰って少しゆっくりしたら良い」と。そう言いながら、私自身が一人になりたかったのかも知れないです。翌日、空港まで送るので実家まで迎えに来るとのことで別れました。

母親と二人になりました。やはりなんとなく察しているのだろうと思います。親父の状態を聞かれました。「もう病院から帰っては来れないかもしれないなあ」続けて「あと一年、半年くらいかも知れない。もう覚悟を決めないといけない。」と言いました。実際はあと数週間ですが。母親は無言で聞いていました。母親はどう思ったのでしょう。

言いたくは無かったけど、私が母親に伝える責任はあったと思います。でも、はっきりは言えませんでした。その晩は母親と二人で夕食を食べました。何を話したか全く覚えていません。

今思えば、主治医に言われて泣いたこともテレビドラマの一場面のように思えます。

※メモ
余命を告げられややうろたえました。亡くなった時、何をどうしたら良いのか、あらかじめ調べようと一瞬頭を過ぎりました。でも止めました。調べること自体が嫌でした。行き当たりバッタリで良いと決めました。実際、大半は葬儀屋さんが助けてくれました。成行きで大丈夫です。