介護離職への道(28)残して逝ったもの
残して逝ったもの
親父が逝ってしまいました。その後に何を残してくれたのだろう?
不用品は大量にありました。読書家だったので大量の単行本、文庫、辞書。辞書は、私、弟、祖母が使っていたものまで残してありました。辞書が好きだったのか、昭和一桁の世代には貴重だったのかも知れません。
お洒落な方だったので大量の背広、Yシャツ、ネクタイ、洋服、靴、靴下、帽子がありました。背広、Yシャツのほとんどはクリーニング済みで家中のタンス、押入れに保管してありました。多趣味でしたので大量の切手、写真、PCソフト、VTR、DVD、CD、CD-R、MD、TAPE・・・がありました。
何故かしら古いパソコン、PC98?とプリンタが車庫にありました。自宅で使っているのを見たことがない型式の古いパソコンでした。どこから持って来たのやら?デジカメはイオスは2台、古い富士通のパソコンが2台、あるはずのゴルフセットは何故か見当たりませんでした。誰かにあげたのだろうか?
記録媒体のVTR、CD-Rなどは家の収納場所から車庫にまで、いたるところに詰めるように置いてありました。ほとんどが大量のゴミです。車庫の段ボール箱の中身を確認しながら整理しました。
少し面白い、懐かしいところではオープンリールデッキがありました。そのオープンリールのテープが段ボール2箱分ありました。思い出せばFMをダビングしていた頃のやつです。大量に録音して、録音したことで満足してたのでしょう。再生して聞いている場面はあまり記憶にありません。そんな古いものが出て来たのです。
気付いたことに、親父の自分の物ばかりです。ひょっとしたら私の懐かしい三菱のワイヤレスマイクが着いていたラジカセ、ソニー短波ラジオのスカイセンサーがどこから出てくるかも知れないと期待しながら整理していました。しかし、私や弟の持っていた物は、ほぼ全て捨てられていることが分かりました。「クソ親父」って感じでした。
よく考えると、本棚に残してあった中高の教科書、参考書は全て無く、親父の書籍が代わって並んでいました。車庫に整理して保管したオモチャ、めんこ、ベーゴマがありませんでした。特に、めんこ、ベーゴマは友達に貰ったり、交換したりした物でした。私的には非常に貴重な物でしたが、いつの間にか忘れていました。親父のオープンリールが出て来るまで。
大量の単行本などがあるので、試しに少しだけブックオフに持って行きました。大事にしていた辞書は、値段も付かず買取すらされませんでした。中途半端に古い辞書は価値が無いようです。現在も未だに棚一面、2重に本が並んだままです。
しかし、本当に無駄なもの、ゴミに近いものが多いのに呆れました。要するに無駄使いです。私にはよく、「お前は無駄使いが酷い、直ぐ飽きて捨てる。思い付きで買うな。」などと宣っていたのに。まあ財産を残すつもりはなかったと思います。よくこれだけ無駄をしたなと思ってしまいます。これだけ見ても、贅沢とまでは行かないけれど、貧乏でもなく、お金に苦労せず、いろいろ好きなもの、好きなことをやって良い人生だったろうと思いました。
親父が介護認定される頃までは、実家に帰省しても弟と休みが違うので、会うことはほとんどありませんでした。もう10年以上は弟と会っていなかったかも知れないです。
親父の件で、もし何かあった時に助けてくれるのは、やはり身内しかいないと思いました。両親が大変世話になった親戚の叔母さんともよく話すようになりました。他の親戚の人、もう25年以上も会っていない従兄弟とも話す機会がありました。今まで親戚付き合いは苦手であまり話もしなかったけれど、これからはもう少し良い付き合いができるようにしたいと思っています。それ以上に肉親の弟はもっと大事にしないといけないと思いました。残された母親にはそこそこ長生きしてもらえるように、兄弟で相談しながらやっていこうと思っています。
結局、親父が残して逝った最も価値があるものは、格好良く言えば「絆」なのかも知れないです。
忌引き休暇が終わり、帰りの飛行機の中では爆睡状態でした。羽田での待ち時間も約1時間くらい寝ていたかも知れないです。いろいろと忙しかったし、気分的に疲れたのだろうと思います。家に着いたのはだいたい17:00くらいでした。本当に疲れました。
※メモ
私は、今年で還暦らしいです。親父ほど好きな物を買ったり、楽しんだりは出来てないように思います。定年前に退職したせいもあります。年金受給の65才以降になるまで緊縮財政が続きそうです。それ以降は親父を見習ってもっと何か楽しみたいと思っています。